女優


女の子が普通、誰かにお腹を殴られたなんていう経験はない。


だが、私は女優であり、そういう殴られる女性も演じないといけないこともあるわけで



「そう。ダメ出しされちゃってさ」
 


俊介は私の深刻な悩みをテレビを観ながら上の空で聞いている様子だった。そんな彼に、苛立ちリモコンでテレビを消す。




「おい」




「ちゃんと聞いているの?」




「だからさ、もっと気楽に考えれば? きっと、明日になったらいい演技ができるよ」





「適当なこと言わないでよ。今日だって十回も取り直してダメだったんだから。挙句の果てには女優を辞めろって言われるし」
 




私はその時のことを思い出し、悔しさに目に涙を溜める。




「おい。泣くなよ。わかったよ。って俺は何をすればいいんだ?」




「それがわかったら、相談なんかしないよ」




「……じゃあ、どういうシーンでダメだって言われたんだ?」




「お腹を殴られるシーン」




「はぁ?」





「だから、私が演じる主人公がお腹を殴られるシーンだよ」
 



今撮影を行っている映画。私は9年ぶりの主役に抜擢され、続けることが不可能だと感じ始めていた芸能世界での仕事に一筋の光が煌々とだが灯し始めた。しかし、今私は大きな壁にぶつかっていた。





「主人公が洗脳されたプロレスラーに捕まってお腹を思いっきり殴られて嘔吐するシーンなんだけど、それが上手くできないの」





「……その映画面白いのか?」





「馬鹿! 面白いに決まっているでしょ。特にそのシーンは重要なんだよ。だから、監督も厳しく何度も撮り直しているんだけど」





「そうか。で、監督にはどう演技指導されているんだ?」





「うん。もっと本当に殴られているようにやれ。それじゃあ、演技。演技。って」




「それはだって、ホントに殴られているわけじゃないんだろ? 演技だから仕方ないんじゃ……」




「そうじゃないの。もう。馬鹿」




「馬鹿って……じゃあ。あれだ。ホントに殴られてみるとか」





「え……」
 



私は思わず片手で自分のお腹を抑える。





「お前、腹殴られたことあるのか?」




「ないよ。そんなの」




「じゃあ。殴られてみるしかないだろう。それでどういうふうになるか試してみるの
が一番なんじゃないか?」




 お腹を殴られる。一体どうなるのだろう。怖かった。でもこのチャンスをモノにするにはもうそれしかない。




「わかった。殴って俊介」




「ああ、わかった」
 



俊介は立ちが上がると私と向かい合わせに立つ。




「じゃあ、一発殴ってみるぞ」




「う、うん」
 





拳を作った彼に、キヲツケの体制でそれを待ち受ける。



チャンマンさん

03/05 [10:12]

「行くぞ」




ウッ!




 ゆっくりと彼の拳がお腹にめり込む。身体の中にあった空気が一気に口から吹き出る。




「大丈夫か?」
 



お腹を抑え摩りながら、内臓の妙な感覚が襲っていた。




「うん。もっと強くていいかも」
 



でも今の殴り方は全く殴られたという感じではないと思った。どちらかというと押されたという方が適切だろう。





「そうか。じゃあ、今度はもっと強く行くぞ」




「うん」





ウッ!
 




内臓が奥の方まで押し込まれ、血の気が引くような感覚。そして後から来る鈍くて気持ち悪くなるような今までに感じたことのない傷み。思わずその場にしゃがみ込む。




「だ、大丈夫か? ちょっと強かったよな。ごめん」
 



私は頭を振る。だがその痛みの中に確かに壁を突破する何かを掴んだ気がした。





「いい。こんな感じかぁ。痛いなあ。そうだ。今度はそれで嘔吐する練習をしなきゃ」




「おい。それは止めた方がいいぞ。怪我するよ」




「ダメ! やる。何か食べよう」
 




痛むお腹を引きづるようにして立ち上がり、ダイニングに向かう。




「パンでいいか」
 




調度テーブルにあったパンを無理やり口に押し込む。痛んでいる胃袋にパンが入っていって中で混ざっているのがわかる。





「おい。マジかよ」




「マジよ。さ、殴って」
 



食べ終わった私はリビングに戻り、また背筋をのばして直立する。




「もう知らないぞ」




「うん」
 



ウッ!
 




気持ち悪い。四つんばいに倒れ込み、殴られた胃袋は凹んだまま胸の辺りに何かが詰まっている感触が伝わる。息も上手くできないそしてそのまま一気にそれが口から吐き出された。
 




オエエエ
 



私はその場にさっき食べたパンと、その前に胃袋に入っていた何かを吐き出した。口の中に酸っぱくてザラザラとしたモノが残り、目には涙が溢れむせ返っていた。





「おい。おい」
 




だが、この最低な状況の中で確信に近い手ごたえを覚えていた。これか。これがお腹を殴られるってことなんだ。
 




後日、問題のシーンは一発でokをもらい、映画も無事にクランクアップを迎えられた。