食べ過ぎボクサー






蒼井は持ち前のハードパンチで地下ボクシングの中で、デビューから五十戦負けなしの不動のチャンピオンの座に君臨していた。



勿論、彼女は自分に対して過剰なほどの自信を持ち、自分が負けることなど考えてもいなかった。




しかし、その日はその過信が仇となったと言っても良かった。彼女は試合前、友人に誘われて居酒屋で飲み食いをした後に試合へと望んでしまった。



控え室。上はビキニに下はボクサーパンツの同じみの試合用の衣装に着替えた蒼井は、グローブを嵌めた手で腹の辺りを摩っていた。



「ああ、食べ過ぎた……」



 顔を歪ませながら膨らんでいる胃の辺りを軽く叩いてみた。



「ウッ」
 



少し衝撃を与えただけなのに、胃袋に鈍い痛みが走るのがわかる。




「やばいなあ」
 



もともと華奢で腹筋も割れていない蒼井は、ただでさえボディーはあまり打たれ強くないのにも関わらず、こうも胃が張っていると思いっきり殴られたらひとたまりもないことはこの時点で明らかだった。




「蒼井さん。そろそろ本番でーす」
 


と、控え室のドアが開きスタッフが顔出して蒼井を呼ぶ。



「まあ、一発で相手を沈めれば問題ないか」
 


蒼井は自分にそう言い聞かせ、は立ち上がった。



蒼井がリングに上がると、割れるような歓声が聴こえる。
 


蒼井はその歓声を横目に赤コーナーに寄りかかり、反対側の青コーナーの挑戦者、寺田を睨みつけるように見つめる。
 


寺田はデビュー戦だ。だから、彼女のデーターは蒼井にはまったくなかった。体格としては、蒼井と同じスラリとした華奢な体格。



身長は蒼井の方が五センチくらい高い。だから、おのずと、腕の長さも蒼井のほうが上になる。




 腕はそこまで太くないから、ハードパンチャーではないだろう。さらに、腹筋も割れていないから、ボディーを狙えばすぐに動けなくさせられるかもしれない。
 



蒼井は寺田を見ながらそのような推測を立て、そして自信ありげに鼻で笑う。
 



ゴングが鳴り響く。
 



歓声と共に、両者がリングの中央へ歩み寄っていく。
 


この地下ボクシング。レフリーもいなければ時間制限もない。ただ、殴り続けてそちらかが参ったというか、戦闘不能になるまで戦われるデスマッチである。
 


まず、先手で手を出してきたのは寺田だった。左フックを蒼井の顎あたりに繰り出す。
 


しかし、まだ新人ということもあってそのフックは大振りだった。蒼井はそれを難なく




首を下に振って避ける。
 



―ああ腹が重たくて身体が旨く動かない。でも、甘いな。こんな大振りのパンチじゃ、こんなバットコンリションでも避けられる。よし、腹ががら空きだ。ここを狙って一気に……




「ウッ!!」
 


と、腕を動かそうとしたその時だった。
 


蒼井の腹に寺田の右ボディーアッパーが打ち込まれる。




 何が起こったのか、蒼井は一瞬わからなかったが、自然と呻き声と少量の唾を吐き出す。
 


そして、痛みが脳に伝わってきた時にはもうすでに、胃袋の痙攣が始まっていた。




「ウウウ……」
 



痙攣を起す、殴られた胃のあたりをグローブで抑えながら、後ろに後ずさりする。その様子に、会場はどよめく。




―そうか。左フックは見せかけだったのか……身体が遅い分、下から来たボディーブローには反応が遅くなった……ヤバイ……まともに胃袋に食らった……−




「ウッ……」
 


蒼井は胃袋の食べ物がせりあがって来るが食道の感覚でわかる。彼女はその気持ち悪さを必死で堪えようとするが、ついに彼女は前のめりに口から胃のものを吐き出す。



「ぉぐえぇ……ゴホ、ゴホ、ゴホ」
 


彼女の足元の床に、茶色い吐しゃ物がぶちまかれる。
 


その光景に、観客のどよめきは大きくなる。



―やばい、はやく。早く回復……―



「ぉぐえぇ……」
 


彼女は心の中でそう思ってはいながらも、彼女の胃は言うことを聞かず口から吐き出させようとする。
 


そんな蒼井を挑戦者の寺田は見逃してくれるわけはなかった。
 


寺田は素早く蒼井に近づき、腹に拳をめり込ませる。



「ウッ……ウッハ……」
 


胃の痙攣の痛みと共に、外部から寺田の拳が胃袋を何発も圧迫させられ、彼女は立っていられるはずはなかった。



 彼女が自分の吐しゃ物で汚れる床に、蹲るようにして倒れる。




「ウッ……ま、参った」
 



呻き声を出してもがき苦しみながらも、蒼井は寺田にそう告げてギブアップを宣言した。



この瞬間、新チャンピオン寺田の誕生となった。
 


一方、元チャンピオンの蒼井はその後、数十その場から蹲ったまま動けず、元チャンプとしては無様すぎる姿を、観客にみせることになった。